【いきとし】遺史考【生けるもの】

火病

生と死は生命体の永遠のテーマであり、「論語」で孔子
弟子、子路が「死者は知る事ありや」と師に尋ねたように、
死後の所謂”魂”の有無ということは古来より人類の共通
の関心であった。
哲学上、人が存在することは証明できないというくらいだ
から、生きていない状態での魂といったものは、それを知
る手立てなどある筈もない。しかし、生き残った人々は、
先に逝った人がかつて”あった”という事、そしてその生
き様を偲び、祈る事で、その人の中では故人の魂は存在し
得るのではないだろうか。
モニュメントとしての墓などの石造物=遺史 そのものは
加工された凝灰岩であったり石灰岩であり、供養塔と呼ば
れる遺史の中には故人の骨が入っていないものや、そもそ
も存在したかどうか定かではない、”伝説上の人物”のも
のもある。しかし、我々が遺史を見て思い、祈る時、遺史
が築かれた時の”魂”は確かに我々の心に宿り、想像とい
う翼を得て胸中を駆け巡るのである。

〜「遺史團入門」序文より抜粋〜


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論語について:
子路孔子の弟子の中では一番好きです。人間っぽい所、
義に厚い所、おっちょこちょいなところ(笑)。
反面、なんで顔回があそこまで褒められるのかがよく分かんない。
高校時代、漢文の授業中「書百篇意おのずから通ず」という言葉を
習いました。一方、「論語読みの論語知らず」という諺がありました。
いったい、言葉のどちらが正しいんだろう。それを確かめる為に
論語」を毎日1回通学時に読んで見ました。百回読んで見ました。
結果、今覚えているのは、子路孔子の問答と、「忠と孝」の二律背反
は当時としての処世術の為であったのだろうと理解した事と、ろくでも
ない人間なら孔子はそいつの向う脛を打つのだという事。これが原文↓

”原壌夷俟、子曰、幼而不孫弟、長而無述焉、老而不死、是爲賊、以杖叩其脛”

それだからといって叩いていいの?危害を加えていない人間に対して・・・
と、まだまだウブだった当時の私(人権派)は思ったものでした